自己実現×障害のモヤモヤ! 「自分らしく生きる」をあきらめず、アートで可能性を広げる
知的障害と自閉スペクトラム症という生まれつきの脳の特性を持ち、幼少期から日常生活や集団行動に困難を抱えてきたHさん。家族をはじめ多くの支援者に支えられながら、自分らしい表現を探し、アーティストとしての道を切り開いています。今回は、二人三脚で歩んできたHさんのお母さまも一緒に、これまでの軌跡と未来への想いを伺いました。
PROFILE
H.Yさん
22歳
大阪府出身。小学校の就学時健康診断で、知的障害と自閉スペクトラム症の診断を受ける。小中学校は一般校に通いながら、個別療育や放課後等デイサービスなどを利用し、社会性を育む。中学卒業後に高等支援学校へ入学したが、蜂窩織炎により歩行困難となり、退学。アートに特化した就労継続支援B型事業所に入所し、絵画制作を開始。現在は絵作家として活動する傍ら、別の就労施設に通い、ダンスとカフェ業務に取り組んでいる。

“できないこと”にしっかりと向き合い
“できること”をひとつずつ増やしていく
Hさんが“自分はまわりの人と違うかもしれない”と認識したのは、いつ頃だったのでしょうか。
Hさん「小学校に入ってからかな。私だけ先生に怒られてばっかりで。給食着を着るのに私は手こずっているけど、みんなはできている、とか。“なんでだろう?”って感じていましたね」Hさんのお母さま(以降:母)「自閉スペクトラム症の疑いは、1歳児検診のときから言われていたんですが、私がまず受け入れられなくて。小学校に上がるときの就学時健康診断を受けた後に、脳の検査を受けて、知的障害と自閉スペクトラム症であると診断されました。でも、“障害者手帳を持っていても治らないんだったら、持つ意味がないのでは?”と思ってしまって……。それがあることでいろいろなサービスを受けられることを娘が4年生になるまで知らなかったんです。早く調べていれば、もっと早く療育を受けさせてあげられたのに、と後悔しています」
では、Hさんは10歳から療育支援を受けるようになったんですね。
母「まず、区役所の保健福祉課に相談して、こども相談センターというところで障害者手帳が発行されました。それから相談支援員さんを通して、ヘルパーさんや訪問看護師さんに来ていただいたり、学校以外の居場所づくりとして、放課後等デイサービスで少人数の集団療育を受けたり、そういったサポートを受けてきました」
知的障害と自閉スペクトラム症の特性は人それぞれですが、Hさんは日常生活や人との関わりの中で、どんなことに難しさを感じていましたか?
Hさん「みんなと同じ動作ができないことが大変でした。あと、移動教室のときに次にどこに行くのかがわからないとか、給食当番で何をしていいのかわからないとか。階段の段差もわかりにくかったです」
母「娘は生まれつき小脳が半分しかなくて、空間認知能力が低いんです。階段の段差を認識しづらかったり、よく人とぶつかったりもしていました。それで、学校の許可を取って、娘に『どの色が見やすい?』と聞いて、その色のビニールテープを階段に貼らせてもらったりしましたね」
視覚的に認知できるように工夫をしながら、学校生活を送っていたんですね。
母「何かを教えるときに、視覚的にとても細かく教えないと、また明日が来たら一から教えることになるんです。それで、写真やイラストを貼って、『これはこういう風に使うものですよ』と一つずつ説明する資料を作りました。人の表情を読み取ることも苦手なので、『相手がこういう表情をしているときは大丈夫』という内容をイラストで教えたり。声の大きさも『このくらいでしゃべろうね』と具体的に繰り返し教えて、定着させていきました」
Hさん「お母さんが作ってくれたものがなかったら理解ができていないと思うので、すごく助かりました」母「ほかにも、幼稚園や小学校の同級生との交流だったり、放課後等デイサービスでいろいろなことを経験させてもらったり。人間関係の思い込みを解いたり、励ましてくれる人がいたりしたことで、だんだんと社会性が身について、まわりとのコミュニケーションも取れるようになっていきました」
絵を描くことで自分の感情を表現できる
それが他者とのコミュニケーションツールに
中学卒業後、高等支援学校に入学するも、蜂窩織炎(ほうかしきえん/皮膚の深い層から皮下脂肪にかけて細菌が感染し炎症を起こす病気)に罹患し、歩行困難になったそうですね。
Hさん「ちょっともう通学が難しくなったんですけど、学校に行かないのはイヤで歩行器を使いながら、がんばって通っていました。ほかの人より歩くのがめちゃくちゃ遅くて、朝の満員電車に乗ると、どうしてもね……。歩行器って場所を取るじゃないですか。ある日、見知らぬ女子高生の陰口が聞こえてしまったんです。それで“もうイヤやな”と思って、2年生のときに退学しました」
母「そのあと、通信制の学校に一旦通ったんですけど、やっぱり普通の勉強は難しくて。その学校を退学してからもいろいろあったんですけど、18歳になって、アートに特化した就労継続支援B型事業所(障害や難病などで一般企業での雇用が難しい方に、働く機会や生産活動の場を提供する福祉サービス)に通うことになりました。そこで絵を描くことに出会ったんです」
その居場所が見つかるまで、ご苦労があったかと思います。
Hさん「知能検査では7歳と出ているんですけど、それよりもできるように見られてしまうことに苦労しました。周囲の方から『これだけコミュニケーションが取れているから自閉症じゃないでしょ?』って言われるんです。でも、いざ仕事となるとできなくて、サボっていると思われたり、『なんでできないの?』って言われたり。それで苦しくなって、仕事を辞めることが多々ありました」
周囲から実際以上に『できる』と思われることで、苦労することもあったんですね。そこから、アートに特化した就労継続支援B型事業所を選んだ理由は?
Hさん「高等支援学校の文化祭で絵を描いたとき、美術の先生から『絵の才能がありますよ』と言われてうれしくて。だからかな」
その事業所ではどんな活動をしていたのですか?
Hさん「仕事として絵を描いて、シルクスクリーンでTシャツに印刷して販売していました。やってみたら“好き!”って思ったんです」
そこからどんどん絵を描くことにハマっていったんですね。絵を描くことのやりがいを教えてください。
Hさん「ペットを飼っている方から『うちの子を描いてほしい』というご依頼があるんですけど、できた絵を見せたときに『わあ、かわいいね!』って喜んでくれる方が多くて。それがうれしいなって思う。絵を描くことは全部好きです」
アートと出会ってから、どんなことが変わりましたか?
Hさん「たくさんの仲間に出会えたことかな。絵を描くことで、人とのコミュニケーションが取りやすくなりました。いろんな絵を描く人と、いろんな話ができるし、そこが変わったかな。あと、コミュニケーションをとるのが難しいから、絵を描くっていうのもあるんですよ。絵って感情が入るので、感情が伝わるんです。絵と出会ってからのほうが断然楽しいです!」
突然の大きな喪失を抱えながらも
創作を力に未来へ向かって歩み続ける
その後、賞をとったり、百貨店でグッズが販売されたり、アート活動が本格的になった18歳のときに、お父さまが急逝されたとのこと。当時の心境を聞いてもいいですか?
Hさん「父親は自死なんです。私自身、小学校1年生のときに担任に怒られっぱなしで、同級生のいじめにあって、自死しようとしたので、その気持ちは分かる。父親はいいときもあったし、あまりよろしくないときもあったし……。複雑な想いですね。でもやっぱりショックで、1年間くらい引きこもりました」
母「その間、娘の話を聞いてくれる人がまわりにいなかったので、大阪市で実施している自死遺族の無料カウンセリングを活用させてもらって、思う存分話を聞いてもらっていました」
引きこもっていた1年間、絵は描けていましたか?
Hさん「あまり絵を描こうという気持ちにはならなかったですね」
母「立ち直るきっかけは『アートフェスに応募してみよう!』と誘ったことです。描いているうちに、絵を描く楽しさを思い出していった感じですね」
Hさん「そのアートフェスがきっかけで、『見たことあるで!』とか『がんばって!』って声をかけてもらって。“見ていてくれる人がいるんや!”と思うとうれしいし、安心もしました。私が通っている婦人科の院長先生からも『ぜひ描いてほしい』と言われて、動物たちの絵を描いて、待合室に飾っていただいているんです」
母「ご依頼をいただいて、半年をかけて一生懸命に描いたことで、娘は元気を取り戻しました」
これからやりたいことや挑戦してみたいことがあったら聞かせてください。
Hさん「絵を描いているときがめちゃくちゃ楽しいから、めげずに続けたい。で、世界に行ってみたい。日本でも世界でも活躍できるようになりたい。そのためには何百枚も描かないと」
母「娘はダンスもがんばっていて、イベントに出るために体力を整えていくのもこれからの課題です。まだまだ二人三脚で、“私がいなくなった後はどうなるんだろう?”とか、考えることは山積みですけど……。でもずっと悩んでいても仕方がないので、今日1日を心地よく過ごすことを目標に。“あ~、楽しかった!”って毎日を重ねていけたらいいなと思っています」
Hさん「自閉症でもあきらめない。助けてもらいながらでもいいので、元気にやっていけたらと思います」