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みんなの人生ピカっとのぞき見! Vol. 27

二拠点生活×キャリアのモヤモヤ! 私らしく働き、家族と暮らす。二拠点という選択肢

平日は大学の研究者として富山で生活し、週末は東京に帰って家族と過ごす二拠点生活を送っているSさん。家庭と研究の両輪を大切にする背景にあったのは、“人生は自分でつくるもの”という強い信条と、 “安心できる、家族という名のチーム”の存在だと語ります。一方で、望むキャリアを歩む裏側には、葛藤や迷いと向き合い続けてきた時間がありました。

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PROFILE

S.Kさん

47歳

大学院時代にラオスに留学し、文化人類学の研究に携わる。結婚・出産を機にキャリアを中断するが、人事コンサルタントとして復帰。その後、大学の研究員として富山に単身赴任し、半年間、東京と富山の二拠点生活を送る。これが研究者としての復帰の足がかりとなり、現在は富山県内の大学で地方創生とキャリア研究を専門とする研究者・教員として働く。家族は、夫、高3の息子と高2の娘、そして愛犬。趣味は町中華での一人飲み。

望んでいた研究者の道が開けるも 
二拠点生活で見つめ直した家族との向き合い方

2年前、富山と東京の二拠点生活を始めたきっかけを教えてください。

当時、私は個人事業主として仕事をしていましたが、もともと研究者として生きたいという思いがありました。研究者として道を進むには、論文を書いたり学会で発表したりして研究業績を積まなければ土俵に上がれません。チャンスが来たら飛び込もう!と日頃からスタンバイしていました。

そんなとき、インターネットで富山にある大学のリカレントプログラム研究員募集の広告を見つけて、思わず応募ボタンを押してしまったんです(笑)。家族に反対されたら諦めようと思っていて、採用の現実味が帯びてきたタイミングで、初めて家族に「これに挑戦してみたい」と話をしました。夫は、「富山に住むのは、無理じゃない?」と慎重な反応でしたが、高校1年生だった息子が「再来年は僕の受験があるし、行くなら今だよ」と。それを聞いて夫も同意してくれました。唯一不満そうだったのが、当時中学3年生だった娘です。すごくママっ子なので、泣きながら、「行かないでって言っても、行っちゃうでしょ。行っておいでよ」と言われました。その後、正式に採用されて富山への半年間の単身赴任が決まりましたが、“子どもたちは大丈夫だろうか”という不安がありましたね。

家族と離れて暮らし始めた頃、家族の中で起きた印象的な出来事はありましたか。

息子が高校をやめたいと言い出したことです。私に心配をかけまいと頑張っていたけれど、学校が自分には合わないと。私は、「やめてもいいし、アルバイトをしてもいい、何をしてもいいよ。自分で選んだ道を正解にしていけばいいんだから」と私の考えを伝えたんです。ただ、夫と意見が対立して、初めての夫婦喧嘩も経験しましたね。結局、家族全員で話し合い、通信制の高校に編入という形で落ち着きました。

半年間の研究員として活動された後、今度は研究者・講師として大学で教壇に立つことになったそうですね。

縁あって大学での仕事に就くことになったのですが、私にとってはすごくうれしいことでした。

ただ同時に罪悪感もありました。東京に帰ったある週末、娘の目が腫れていて、明らかに泣いた形跡があるんです。話を聞くと、「どうして富山じゃなきゃいけないの。東京の大学じゃだめなの?」と問いかけられました。きっと彼女は、“遠い富山を選ぶなんてママは私のことが大切じゃないの?”という寂しさの限界点にいたんだと思います。私も話をしながら、一緒に泣いてしまいました。こたえたのは、娘の心が危機になったときに、私が家にいなかったことです。一人で我慢していた時間を想像すると本当に申し訳なくて。“もしそばにいられたら、心の変化にすぐ気づいて話を聞けたのに”と、今もそんな思いが残っています。

家族と離れていることについて、ご自身の中でも迷うところがあったんですね。

負い目を感じる私に追い打ちをかけるのが、私の母親の存在でした。母は、“母親が家にいないなんて、子どもがかわいそう”という考え方の人で、私が子どもたちを置いて単身赴任することにも強い戸惑いを抱いていました。母自身、幼い頃に両親が仕事で忙しく、寂しさを感じてきた経験があり、“自分は子どもに同じ思いをさせたくないと専業主婦を選んできたのに、娘ときたら……”と。実は、母との関係は長年抱えてきた問題なんです。“自分とは異なる親の価値観といよいよ向き合わなければいけない。そこを乗り越えないと私の人生、次には進めない……”そんな思いが常にありました。

自分の人生は自分で選ぶ。
強いハートを育んだ生い立ちと異国体験

葛藤しながらも、わが道を行く。Sさんのその姿勢の原点はどこにあるのでしょうか。

高校生の頃から、自分の人生は自分で選んで生きたいと思っていました。両親が不仲で、家が安心できる場ではなかったんです。母は、私を箱入り娘のように育てたい人。親の言うことが一番正しいという揺るぎない自信があって、彼女の鳥籠から早く出るにはどうすればいいかをずっと考えていました。

初めての反発は大学時代。家出をし、友達の家を渡り歩いていたんです。母はすごく怒って友達の家に電話をかけてきましたが、そのときに“この子は私の手には負えない”と少し諦めてくれたようです。その後、バックパッカーとして旅をしたり、大学院生のときには、東南アジアの文化に興味を持ち、独断でラオス留学を決めたりといったことがありました。両親はとても驚き、心配しましたが、自分の意思で大きな一歩を踏み出したのはそのときが初めてだったように思います。

ご自身が一歩を踏み出すきっかけになったラオスでの暮らしは、いかがでしたか。

意気揚々と向かうも、挫折の連続でした。言葉がわからないし、家は高床式住居で、電気も水もない。あるとき、市場で大きな肉の塊の買い方が分からず困っていたら、周囲の女性たちが、「肉が欲しいの?どのくらい?この野菜と一緒に食べるといいよ」と身振り手振りを交えながら次々と声をかけてくれて。言語が通じなくてもなんとかなる!という成功体験を得たのと同時に、困ったときは誰かに頼っていいんだと学びました。

ラオスはいい意味で他力本願な感覚や、“困ったら何でも言って。できることならやっとくからさ”という互助精神が根付いているんです。特に “子どももいて仕事してみんな大変。だから助け合えばいい”という考え方があるので、小学校では赤ちゃんを背負って授業をする先生や、親に子どもを預け、海外に出稼ぎに行く女性教師もいます。女性にもさまざまな働き方や生き方があり,ラオスの女性は本当にたくましいと大きな影響を受けましたね。

子育てと仕事の両立は大きなテーマですよね。ご自身のときはいかがでしたか。

私の場合は、ラオスで出会った現在の夫と結婚しましたが、出産・育児を機に研究は中断せざるを得ませんでした。その後、子どもが幼稚園に行き始めた頃、社会復帰を目指しアルバイトを始めていたんですが、そのタイミングで子宮がんが見つかったんです。35歳のときでした。現在は完治していますが、その経験を通して思ったのは、“人間、いつ死ぬかわからない。母や誰かが望む人生を生きるんじゃなくて、自分が生きたい人生を生きよう!”ということ。それ以来、自分が納得できる人生の選び方を意識するようになりました。

決意を新たにした30代後半。どんな思いが交錯しましたか。

 “研究者に戻れなかったらどうしよう”という焦りはありましたね。ブランクの期間は、研究実績を積めていないので、戻る場所がないと感じていたからです。でもそこで諦めるのではなく、“もとのポジションに戻れなかった場合に何をしようか”と気持ちをスイッチして考えました。例えば、大学院の博士課程で研究していた心理学を、ビジネスの現場で応用するアイデアを構築したのも、このときです。

“きっと自分にとってベストなタイミングが来る。そのときを逃さないように今できることをやろう”と、地道にキャリアを積み上げていきました。

応援し合える家庭というチームをベースに 
あたたかな関係性を紡ぐ人生を送りたい

離れていても家族との関係を良好に保っていくために、心がけていることはありますか。

愛情表現は欠かしませんね。子どもたちに会えば「大好き」と言葉にして伝えますし、息子には嫌がられながらも、できる限りスキンシップも取るようにしています(笑)。“いつもあなたのことをちゃんと思っているよ”ということは伝えたいので、家族のグループ LINE とは別に、一人ひとりにメッセージを送っています。娘とは日々の出来事を互いに共有し、息子には既読スルーされつつも、“ちゃんとママは必要なことは覚えてるからね”と伝えるようにしています。

子どもと密に関われるのも、あと数年。子どもたちが大学生になるまでは毎週、東京に帰るつもりです。娘の高校の保護者会や委員会にも出席したりして、日曜日の最終新幹線で富山に戻る。そんな生活を続けています。日々課題はあったものの、二拠点生活は子どもに対して過保護になりすぎず、家族それぞれの自立を促してくれた経験でした。

ハードな生活ですが、家族としっかり向き合いながら自分の道を進み続けているんですね。ご自身にとって家族とはどんな存在ですか。

結婚して間もない頃、夫に言われた「家族ってチームなんだよ。だから大丈夫」と言われた言葉がすごく心に残っているんです。お互いを応援し合えるチームのような家族になれたら、どんな状況でも安心でき、幸福を感じられる。私自身が結婚後に実感したことでもあります。

安心できる家族の基盤があれば、のびのびと自分の進みたい道に進める。私自身、子どもたちが寂しい思いをしていることを知りながら自分の道を進む決断をするのは、身が切られるような思いでした。でも、私が前に進む姿を見せることが、子どもたちにとっての勇気になると信じています。彼らに伝えたいことは、やりたいことがあったら、まずは一歩踏み出してみること。全力で応援するし、踏み出して違うと思ったらやめればいい。そのときは一緒に“回収”を手伝うよって。家族みんなで“いいチームの形”を模索していけたらと思っています。

そんな家族に見守られながら、これからどんな人生を歩んでいきたいですか。

私の研究テーマは、“働くことの幸せや仕事を通して得られる幸せ”です。その研究を生かした教育、地域づくりをして、そこに生きる人みんなが笑顔になれるような世界、将来子どもたちが社会に出たときに、幸せを感じながら働ける世界をつくりたいです。そして、家庭というチームをベースに、さまざまな人とつながりが感じられる、あたたかな関係性を紡ぐ人生を送っていきたいです。

キャリアの途中で迷うことがあっても、自分の信じる方向に向かって動いていれば、最後にはうまくいくと思います。私もキャリアや家族のことだけではなく、親の介護や人間関係だったり、自分のダメさに落ち込んだりと、いろいろな悩みがありますが、時に町中華で一人飲みをして自分を取り戻しながら(笑)、自分の望む道を進んでいきたいです。

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